東京地方裁判所 昭和39年(ワ)12175号 判決 1967年5月30日
理由
(一)、被告より原告に対する債務名義として本件公正証書が存在し、右公正証書に原告主張のとおりの記載が存することは当事者間に争がない。
(二)、そこで次に本件公正証書作成の経緯について按ずるに、証人藤井芳雄、同金錫禹の各証言及び被告本人尋問の結果を綜合すれば、「被告は昭和三九年二月一九日訴外下釜和子より金二〇万円借用の申込を受けたので、同人に対し、担保の意味で連帯債務者となるべき者を参加させる必要がある旨を告げたところ、同人から実弟の原告ではどうかと相談され、被告はこれに了解を与えたが、当日は金二〇万円の借用証書(乙第一号証)を一応作成したのみで、右訴外人にこれに捺印させるだけにとどめた。すると翌二月二〇日右訴外人から被告に対し『原告が連帯債務者になることを承知した。原告及び自分の実父である藤井芳雄に原告の印鑑とその印鑑証明書とを持参させるから万事よろしく頼む。』旨の電話連絡があつたので、被告は藤井芳雄の来訪を待つた。一方藤井芳雄は、同日娘の下釜和子から、原告の印鑑を借り、その印鑑証明書をとつて、右印鑑と印鑑証明書とを被告方に持参し、金を借りてくるように頼まれたので、同人は他意なく直ちに原告方に赴き、原告の妻女から原告の印鑑を借受け、同印鑑を以て原告名義の自己に対する委任状(甲第二号証)及びこれに基く印鑑証明交付申請書(甲第一号証)を作成して、原告の印鑑証明書(乙第五号証の一)の下付を受け、右原告の印鑑と印鑑証明書とを持参して被告方を訪ね、これを被告に交付した。そこで被告は下釜和子を債務者本人兼原告の代理人、藤井芳雄を下釜和子の使者として、下釜和子及び原告の両名を連帯債務者とし、金二〇万円を弁済期昭和三九年三月一六日利息年一割八分、期限後損害金日歩金九銭八厘の約定で貸与することにし、右原告の印鑑を前記借用証書(乙第一号証)及び公正証書作成嘱託委任状(乙第四号証)に押捺したうえ、金二〇万円を使者たる藤井芳雄に交付し、その受領証として証と題する書面(乙第六号証)を受取つた。しかるに期限を過ぎても右債務の弁済がなかつたので、被告は同年三月一八日右公正証書作成嘱託委任状(乙第四号証)に基き、金錫禹を下釜和子及び原告両名の代理人として公証人に公正証書の作成を嘱託し、以て本件公正証書が作成されるに至つた。」以上のとおりの事実を認定することができる。しかして右認定の事実によれば、前記消費貸借契約の締結及び本件公正証書の作成嘱託は原告に関する限り訴外下釜和子が原告の代理人としてなしたものというに妨げない。
(三)、ところが原告は訴外下釜和子の代理権限を争うから以下この点について考えてみるに、原告が前記消費貸借契約の締結及び本件公正証書の作成嘱託につき訴外下釜和子に代理権を授与したとみるべき証拠は全くなく、却つて原告本人尋問の結果によれば、右は原告の全然関知しないところであることを認めることができる。しからば訴外下釜和子の右代理行為は無権代理行為というのほかない。
(四)、よつて進んで被告主張の表見代理の成否について判断するに、原告本人尋問の結果によれば「原告はその頃姉の下釜和子から『子供の物を月賦で買うから印鑑を貸してもらいたい。』と頼まれて、これを承諾している。」ことを認めることができ、一般に他人が物の月賦購入をする場合頼まれてこれに印鑑を貸与することは、その他人の月賦購入代金債務につき自ら保証人となることの代理権をその他人に与えることを意味するものと解するのほかないから、原告も下釜和子に月賦購入代金債務保証の代理権を授与したものと認めざるを得ないところ、本件消費貸借契約締結における下釜和子の前記無権代理行為はまさに右保証の代理権(いわゆる基本代理権)を踰越したものというべく、被告が下釜和子に原告の代理権限ありと信じたのは、下釜和子と原告とは実の姉弟であり、下釜和子の前掲電話連絡に次いで同人等の実父藤井芳雄が使者として原告の印鑑とその印鑑証明書とを被告方に持参したからであつて、右のような事情にある場合、金二〇万円程度の金融につき、本人たる原告に直接問い合せをしなかつたからといつて被告に過失ありということはできないから、結局本件消費貸借契約の締結につき、被告が下釜和子に原告の代理権限ありと信ずるについては正当の理由があるものということができる。しからば原告は本件消費貸借契約の成立につき被告主張のとおり民法第一一〇条の表見代理の責任を免れ得ないものといわなければならない。
(五)、しかしながら、公正証書の内容をなす執行認諾行為は訴訟行為とみられ民法表見代理の規定の適用のないことは、既に判例上も明らかなところであるから、本件公正証書の作成嘱託については表見代理を認める余地はない。
(六)、以上説示の次第で、本件公正証書は原告に関する限り、無権代理によつて作成嘱託されたものであるから、実質上無効であり、従つて原告がその執行力の排除を求める本訴請求は理由ありとして認容さるべきである。
一方本件消費貸借に基く元金二〇万円のうち金一六七、〇〇〇円の未払ありとして連帯債務者の一員たる原告に対し同金額及びこれに対する弁済期後たる昭和四〇年二月五日以降完済まで日歩金九銭八厘の割合による約定期限後損害金の支払を求める被告の反訴請求も、前記認定の事実に照らし、正当として認容さるべきである。